1999/06/13


文章は、すべて 

菅聡子著 
「時代と女と樋口一葉 漱石も鴎外も描けなかった明治」より抜粋です


ここに一枚の肖像画がある。背筋を伸ばして座る女性のその膝元には、

針の道具と端切れがちらばっている。

頭上には吊りランプが、そして画面の右端には文机の上に置かれた

原稿用紙と筆が描かれている。

針仕事に疲れたのだろうか、手の指先をもみながら、しかし彼女のまなざしは

前方にひたと向けられている。

これは明治時代に活躍した日本画家、鏑木清方の描いた一葉の肖像画である。

清方自身によれば、一葉の随筆「雨の夜」に画想を得たものだという。

画面に描かれた吊りランプ、針仕事の道具、そして原稿用紙と筆。

この絵はまさしく、明治の女性作家.樋口一葉が生きた時間と空間を、

鮮やかに切り取ったと言えるだろう。

だが、絵の中の一葉は、画面をのぞき込む私たちの視線を真正面から見返してはくれない。

彼女のまなざしは何を見つめているのだろうか。


という書き出しで始まるこの本はかなり詳しく一葉の作品について解説しています。

<語る主体>としての一葉、そして生活者としての一葉。この両面をとらえることで、

明治の時代のなかを生きる一人の女性が、どのようにして自らの言葉を獲得していったのか、

そしてその言葉が、時代のなかで沈黙せざるをえなかった、歴史の表面に現れる術を持たなかった

他の多くの女性たちのどのような思いを代弁しているのかを明らかにしていきたいと思う。

一葉が語ったこと、語りたかったこと。それは現代の時を生きる私たちに、

いったい何を伝えようとしているのだろうか


という主題で。

それをここに書いているときりがないのでやめますが・・・・

私はこの本から今まで気がつかなかったこと、知らなかったことをいっぱい教わりましたが,

なかでも一葉が作家として注目されはじめた時、一葉は自分に向けられる男たちの視線が、

本質においては吉原の女たちに向けられるそれと同じものであることを知る事になったとありますが,

これは昔は考えもしないことだったし、確かに日記にはそのようなことが書かれていたような気はしましたが・・・。

そしてもう一つ

私は個人的にあまり好きではなかったので、あまり気にしていなかたったのですが、

一葉の日記の最後に出てくる、斎藤緑雨。

この人が最良の理解者であったとあります。

これは気がつきませんでした。単なる嫌みな男としてしか解釈してなかったので・・・。

緑雨による小説評にはどこか一葉作品の本質を言い当てているところがあった。

あるいは一葉自身の関心を強く引くものがあったのだと言えるだろう。

緑雨は一葉作品の核心を、「泣きたての後の冷笑」という言葉で表現している。

世間はたとえば一葉は「にごりえ」を熱涙をもって書いたなどというがそれは当たらない、

「にごりえ」以下の諸作に満ちているのは「冷笑」であって、

一葉は泣き尽くした涙の段階からもう一段上の境地に抜け出ているのだ、

と緑雨は言う。おそらく彼は、一葉作品のなかに、<ものを書く女>としての彼女の葛藤や、

一葉の「女」に向けられる世間の視線を一葉が最も厳しく認識していた、

その影を読み取ったのではないだろうか。

まさに緑雨は、最後の訪問者であったと同時に一葉の最良の理解者であった。


そして一葉の葬儀の場面についてこう書いています


通夜の晩には、斎藤緑雨.川上眉山.戸川秋骨らが集まった。

馬場胡蝶は東京を離れていたため間にあわなかった。

みぞれまじりの冷え込む晩で、緑雨は「霰降る田町に太鼓聞く夜かな」という句を詠んだという。

緑雨は一葉日記に書かれた最後の人物でもあった。

二十五日の葬儀会葬者はわずかに十数名だった。

森鴎外は陸軍軍医の制服に騎乗で葬儀列に従うことを申し入れたが、

樋口家は内輪だけのひそやかな弔いを願ったので、

鴎外の申し入れは邦子(一葉の妹)によって丁重に断られた。

鴎外としては若くして世を去った「まことの詩人」に対する

最大の敬意の表現であったと思われる

がわずか十数名の貧しい葬儀の列に、制服に騎乗の正装でつき従う不釣り合いに、

鴎外はあるいは思い至らなかったのかも知れない。

一葉の「たけくらべ」を絶賛し彼女を「まことの詩人」とたたえた鴎外だったが、

陸軍軍医という最高の地位にあった鴎外は、一葉が生き、

そして描いた社会の底辺の貧しさを、本当の意味で知ることはなかったのだ。


そして一葉の死後相続戸主となった妹邦子についてこう書いています


一葉の死後十二月二十四日、妹邦子が樋口家の相続戸主となった。

あいついで母、姉が亡くなる中、邦子は一人一葉の草稿を守り切った。

借金取りに追われて、草稿をかかえて身を隠したこともあったという。

そこには一葉が自分が死んだら焼き捨てて欲しいと言ったという日記も含まれていた。

現在私たちが<語る女>としての一葉の内面の記録を眼にすることができるのも、

すべてこのもう一人の<女戸主>邦子の力による。

女流作家.一葉の<ものを書く>苦闘を、その孤独な営為のすべてを、

もっとも身近に見つめていたのは邦子だった。

邦子は姉の<言葉>を同じ女性として守り切ったのである。・・・・・・・・・

邦子の<言葉>がどこへ向かったのか、私たちには知ることはできない。

しかし、一葉の<言葉>は邦子の手を経て、

百年の時を超えて今私たちの手元に届けられた。

そこに私たちは邦子を含めた多くの女性たちの声を聞くのである


(個人的にどのように一葉の作品が、一葉亡き後、世にでるようになったのか

興味があるので、これはまた調べて、書きたいと思っています。)


そして一葉の亡くなった五年後、明治三十四年、与謝野晶子は「みだれ髪」を刊行し、

因襲や制度の抑圧を超えて、女性自身の声で愛と官能を大胆に、そして華やかに歌いあげました。

さらに十年後、平塚らいちようをリ−ダ−とする女性たちによって日本最初の手になる

フェミニズム雑誌「青鞘」が刊行されました。

「元始女性は太陽であった」という平塚らいちようの言葉はまさに

<新しき女>とよばれる女性たちの登場を宣言しているのです。

そして最後にこの本はこう結ばれています

相馬御風は一葉を「最後の旧き日本の女」と呼んだ。

果たしてそうだろうか。

一葉の24年の生涯は短く、長い近代文学史の流れのうえから見れば、

彼女が作家として存在していたのはほんの一瞬の時間にすぎないかも知れない。

しかし、厳しい自己認識に裏打ちされた<ものを書く女>としての一葉の孤独な闘いは、

明治という時代、近代という時代の矛盾や制度の抑圧を鋭く描き出し、ともすれば

埋もれてしまう明治を生きた女性たちのさまざまな声を、現在を生きる私たちに伝えている。

女性作家樋口一葉は、その後に続く多くの女性たちの声の原点として、

これからも長く記憶され続ける作家なのである。






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