2000/08/13



1954年

マリリンとジョ−.ディマジオが日本に来た時の写真

東京、名古屋、大阪、神戸、広島、福岡

ディマジオのコーチ遠征にモンローは

日本に3週間滞在した。

日本中がモンロー旋風、モンローウォークに沸いたそうです。



川奈にて

東京の帝国ホテルのまわりは報道人たちでいっぱいなので、
伊豆の川奈に避難した時の写真。

川奈を仲良く散歩するディマジオ&モンロー夫妻。
この時、だれもモンローとは知らなかったらしい。

マリリンたちと後ろの木造の家、子供の洋服との対比がなんともアンバランスで当時の日本がどんなだったかがわかる写真ですね。

たぶんこの頃私たちはネルのシャツ、ウワッパリを着ていたのではないでしょうか?たぶん?

(うろ覚えですが・・まだ私はものごごろついていなかったので)





記念写真を手に
「モンロー
さんはいつもにこにこと愛嬌のある人でした」と山田さん


割烹着が山田さん。

その前が母親の井端くめさん。


モンローは子供たちにも「おいで」と腕を引っ張って、写真に収まったという。



小柄な井端くめさんのことがよほど気に入ったらしい
モンローは、川奈ホテルのロビーでも一緒に写真を撮っている。


川奈ホテルは内部が改装されて、当時の部屋は現存しないそうです。



広島にて



広島「一茶苑」


当時は洋室も備えた料亭旅館だったそうだが、現在宿泊施設はなく、庭園レストランとなっているそうです。

1954年2月11日午前、モンローは広島カープをコーチするディマジオと一緒に福岡から広島に行きました。

モンローは、マリリン・モンローと呼ばれるよりディマジオ夫人と呼ばれたほうがうれしそうだったそうです。


「一茶苑」のロビーでくつろぐ夫妻。

現在ロビー部分はレストランとなっているらしいが、日本庭園は当時そのまま。



広島県営球場でファンの歓声に応えるディマジオとモンロー。

モンローウォークを惜しみなく披露している。




神戸にて



来日時のモンローは、神戸・花隈の料亭「いさみ」にて日本情緒を味わっているそうです。

ぎこちなく箸を使いながら和風料理を楽しんだそうです。

2月14日に阪神タイガースを訪れた時のディマジオとモンロー。

左端がオドール夫人。右端が当時の
球団代表田中義雄氏です。


(なをこの記事は6年程前の「サライ」に載った記事より抜粋しました。)


つい最近の催しでの「マリリン.モンロ−」の紹介文

表参道でつい最近行われた、「ハリウッド.ビュ−ティ−ズ」では

映画評論家の長谷川正さんはマリリン.モンロ−のことを次のように紹介しています。


「風と共に去りぬ」のヴィヴィアン.リ−と対局にあっのが、忍従の人マリリンモンロ−だった。

セックス.シンボルと呼ばれて、ひたすら男たちの思い描く「可愛い女」を演じ続ける。

バストラインを崩さないため寝るときもブラジャ−をつけていたのに、「シャネルの5番だけよ」と語らねばならなかったマリリン。

求められるままに自らを犠牲にして、世界中の傷つける男たちに手を差し伸べた愛の天使。

しかし、その胸中はいつも深い悲しみに震えていた。

「私はお人形に過ぎないの・・・」。

ありあまる程の魅力と才能を持ちながら、必要以上にコンプレックスを抱え込んで、つねに精神的な支柱を他に求めていた。

相手役に「英国の知性」ロ−レンス.オリビエやイヴ.モンタンを望んだのもその表れだった。

「お熱いのがお好き」でコメディアンヌとしての稀なる感性を絶賛されても、なお自分のキャリアに確信がもてず、豊かな肉体をもてあましながらさまよい続けたマリリン。

その悲劇的な死によって、全世界の男性から「聖女」と追慕されるところとなった。



マリリン.モンロ−のことは、

おそらく誰でも知っているでしょうが

マリリン.モンロ−、イコ−ル忍従の人は

結びつかないのではないでしょうか?

でも私もこれがもっともマリリンを言い表してる言葉だという気がしています。



最後に、マリリンが残した遺言が載っている本があったので

これを記載してみました。



マリリンの死から12日目の8月17日、彼女の遺言が正式に発表されたという。

その内容は次のようであった。

遺言は不動産が約50万ドル(約一億5千万円)

(1)まず10万ドルの信託基金を設け、その中から
  • 精神病院に入院中の母に毎年5000ドル
  • 親友であり、元教師のマイケル夫人に2500ドル
  • かって世話になったニュ−ヨ−クの婦人精神科医が希望する研究団体に精神病研究のため寄付

(2)遺産贈与
  • 異母妹に一万ドル
  • もと秘書に5万ドル
  • 友人ロストン夫妻が愛児パトリシア(マリリンが写真をとった子供)を教育する費用2千5百ドル

(3)

  • 1.2や経費を除くすべての残余額(約25万ドル)をリ−.ストラスバ−グへ。衣類一切および形見の品をマリリンの友人、同僚たちへ与える権限も含めて


これは何を意味しているのでしょうか?

マリリンが残した確実なものはこの遺言です。

人は死を覚悟して決して自分をごまかすこともできないし、演技もできない(たぶん)。

マリリンが何を大切にしていたかがわかる、唯一の声のような気がします。

リ−.ストラスバ−グはアクタ−ズ.スタジオを創立した人です。

ここは一流のタレントを養成する、ニュ−ヨ−クで一番名高い演劇塾でした。

マリリンはハリウッドに嫌気がさした時、アクタ−ズ.スタジオの門を叩き、

この人の厳しい教えを乞うたのです。

唯一、マリリンを女としてではなく、りっぱな女優をめざす人間として

接してくれた大切な人だったのではないでしょうか?

マリリンの心の支えは老師ストラスバ−グだったのでしょう。

最後まで自分を無条件で愛してくれる父親を求めていたのでしょうか?


しかし最近読んだ本「わが妹 マリリン」という本では、この遺書を、

亡くなった日の何日か後に書き換える予定で、弁護士と会うはずだったと書いてあり

ました。マリリンはどのように書き換える予定だったのでしょうか?








それは別として、り−
ストラスバ−グがマリリンの死の知らせを聞き

ニュ−ヨ−クから送った弔辞は次のようであったそうです。


マリリン・モンローは一つの伝説であった。

その生涯において、彼女は、

逆境に育った貧しい少女が実現し得たもの

という神話を創造した。

全世界にとって、彼女は

永遠なる女性の象徴となった。

しかし、私は

その神話と伝説を語るべきことばをもたない

私は

この「マリリン・モンロー」を知らない

ただ、-----ひとりの心やさしい人

おのれの感情にしたがい

しかも 含羞 感受性にとみ

拒まれることをおそれながら

なおも あくまでわるびれず生き

自己完成にむかった

マリリンを知っている

            (中田耕治 訳)



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